美濃加茂市の神社に伝わる獅子舞と祭りばやし
 (順不同・1999年現在)

(1)県主神社(太田/西町)

 県主神社の祭礼は、かつては御輿の渡御、神楽の奉納、競べ馬、獅子舞などがあったが、現在は御輿の渡御のみである。祭礼の当日、高張提灯、当元、巫女、御輿、氏子の順に行列となり、当元の自宅から神社まで町内を練り歩く。御輿につけられた大太鼓、小太鼓及び笛によりお囃子が演奏される。出発の際のお囃子は「当元囃し」という曲、道中の曲には、「祭囃子」、「春道(しゅんどう)」、「波の上」、「三度返し」がある。神社の鳥居をくぐり拝殿前では「宮入(みやいり)」が演奏される。神社には、獅子頭が残されており獅子舞が行われていたと考えられるが、少なくとも大正時代以前に廃絶した。

(2)八幡神社(太田/加茂川町)

 祭礼当日、当元から神社まで屋形が行列とともに奉納される際、祭りばやしが演奏される。その曲には、ゆったりとして重みのある「道行き」とすこしテンポの早い「トチハラ」がある。町内で他の神社のおはやしの行列に遭遇した際、相手と曲調をかえて競り合うためである。境内に入ると「宮入り」を演奏する。はやしは、笛が約10名、大太鼓1名、小太鼓1名で行う。昔から保存会があり活動している。3月の初午から祭礼までの約1ヶ月間、集中的に稽古をする。数年前から子どもも参加するようになった。

(3)八坂神社(太田/太田町)

 祭礼当日、当元から神社まで屋形が行列とともに奉納される際、祭りばやしが演奏される。数年前までは、人の手により演奏されていたが、最近は録音テープの演奏に変わってしまっている。

(4)太郎八神社(太田/西町)

 祭礼当日、当元から神社まで屋形が行列とともに奉納される際、祭りばやしが演奏される。その曲名は「道行き」「宮入り」「松ばやし」「山ノ上」「オヒュリオチヒュル」「シンシキ」「チャンチャンツクツク」がある。保存会は、昭和56年に会員数18名で結成。現在は若干人数が減少しているが、年中(月に3回程度)練習している。会員のほかに小学校3年生から高校生までに約70名の登録者があり、祭りばやしの笛は大人と子どもで演奏される。

(5)太郎神社(太田/加茂川町)

 祭礼当日、当元から神社まで屋形が行列とともに奉納される際、祭りばやしが演奏される。その曲名は「下町ばやし」「波の上ばやし」「道行き」「神田(かんだ)」「大針ばやし」「宮入り」などがある。はやしは、笛が約15名、大太鼓1名、小太鼓1名で行う。「おはやし会」という会があり、年間通して練習を行っている。昭和30年代、当時の青年団活動の中で伝承活動を始めたのがその母体である。現在は会員22名。年間の活動のほか、祭礼の前の3月は、特に集中して稽古を重ねている。保存会が10年ほど前に結成され、3月に入ると小学校の1年から3年生までの練習を指導している。なお、神社の祭礼としてかつては獅子舞が奉納されていたが、現在は廃絶している。

(6)深田神社(太田/深田)

 祭礼当日、当元から神社まで屋形が行列とともに奉納される際、祭りばやしが演奏される。その曲名は「道行き」「波の上」「チーチーバヤシ」「大針」「宮入り」などがある。はやしは、笛が7名、大太鼓2名、小太鼓2名である。保存会が10年ほど前に結成され、3月に入ると小学校の1年から3年生までの練習を指導している。なお、神社の祭礼としてかつては獅子舞が奉納されていたが、現在は廃絶している。

(7)古井神社(古井/中富町)

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 祭礼はもと6月の12日13日であったが、現在は4月(第2土日)に変わった。上古井と下古井を氏子としていて、もとはおのおの一台づつの山車がそのカラクリでいろいろな仕掛けを見せた。またおのおの1台づつの大御輿があり、若者がこれを担ぎまわったと言われるが、今はない(明治16年頃まで。「古井村沿革」野村訓導による)。また、馬場があり馬を走らせたこともあったが、これも今は廃止された。
 祭礼の当日、案内、高張提灯、ハイボウ(蠅追)2人(上古井下古井で1人づつ)、神馬、当元、櫃(幣を納めたもの)、太鼓、宝獅子、神官、氏子総代の順に行列を作りで拝殿の前を3回回る。この時お囃子が演奏される。ハイボウ(蠅追)は、両手に竹のササラとねじった木棒を持ち、背に金銀の水引、足にシオリ結びの荒縄を巻く。ササラで頭を撫でられると病にならないと言われる。かつては宝獅子は神前で神楽を奉奏したが、現在は行われていない。
(参考:高橋余一『美濃生活絵巻』国書刊行会、1990)

(8)洲原神社(古井/本郷町)

 祭礼当日、当元から神社まで屋形が行列とともに奉納される際、祭りばやしが演奏される。道中での曲名は「道行き」があり、社域に入ると「宮入り」が演奏される。おはやしは、笛が6名、太鼓2名で行う。数年前まで保存会があり活動していたが、現在は休止状態でお囃子も行われていない。

(9)十二社神社(山之上/西洞)


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美濃加茂市山之上町西洞の「十二社神社祭礼の芸能」は、春の祭礼に奉納する形で実施されてきた。春の祭礼は、毎年4月2日と3日に行われる。3日が本楽で、当元の家、神社、「馬場」の三カ所において芸能が行われる。かつては4月1日夜、当元の家で余興として獅子舞と獅子芝居が行われていた。2日には「馬場」で獅子舞が奉納され、3日の拝殿での獅子舞の後に獅子芝居が行われた。芸題は「朝顔日記」と「梅川忠兵衛」であった。この芝居は戦後に行われなくなった。
 現在の奉納行事(獅子舞)は、慶長5年3月、合祀されて神社が現在地に移転した時、神楽囃子で編み笠をかぶった稚児の舞いと氏子らによる神楽舞いが演じられたのがきっかけといわれる。また、獅子芝居は江戸時代中期から始められたという。
 それより現在まで継承され、昭和53年、近世に始まる伝承芸能としての価値が認められ、美濃加茂市の無形民俗文化財に指定された。

 祭礼の当日、当元の自治会長の家に氏子衆が集まる。行列の出発に先立ち、「悪魔払い(十二文)」が舞われる。出発に合わせて行うため「出立ちの獅子」と呼ばれる。「馬場」では、「屋形」のお宝獅子の前で伊勢太神楽を舞う。羽織を着た演者は、一人で、獅子頭をかぶり、油単をなびかせる。後ろに「アト持ち」が付いて両手で油単を持つ。囃子は笛一名、太鼓二名、唄(「楽屋」という。)三名で構成される。曲は「ヨセ」「デハ」「マクマ」と続き、獅子は囃子に合わせて頭を何度も振る。「マクマ」が終わると油単を絞り込んで一人立ちとなる。左手に幣、右手に鈴を持ち、手元でくるくる回したり、時には手を交差させ、鈴を振り上げたりする。囃子に会わせ軽快に舞う。曲は「ショウデン」「ウタガエシ」「オアゲ」「コアゲ」と次々と奏でられ、それぞれの曲の終半に「ヤアー、ヤアー」と唄(「ミツウタ」という)が入る。最後は「オサメ」で、獅子は床に頭を擦りつけるようにして舞は終わる。頭を取り、舞方が礼をして終了する。
 十二社神社に向かう行列では、「道行き」が演奏される。大太鼓は、屋形の後ろに据え付けられたものを叩き、小太鼓は二人が棒で背中に担ぎ、それを叩く。笛は五名前後が吹く。
 神社に着く(14時ころ)と、神事が行われその途中から獅子舞が行われる。獅子舞は「悪魔払い(十二文)」である。

神事が終了する(15時ころ)と、拝殿の上であらためて獅子舞が奉納される。所要時間は約十五分、そのあと稚児の踊りが奉納される。稚児は小学校に入る前の氏子当元の子どもたちで、男女を問わず10〜15人である。唄に合わせ拝殿の上で輪になって踊りが舞われる。
 「馬場」へ行列の道中、お囃子が演奏される。まず神社の参道を下りきるまで「メデタバヤシ」が、その後「ワタリビョウシ」が演奏される。「馬場」の坂道に入ると「コスズメ」に転調する。
 馬場での芸能は、神事の後に行われる獅子舞と稚児の踊りで、神社でのものと同様である。行事終了後、「メデタバヤシノクズシ」を演奏しつつ神社へ戻る。

 かつては、拝殿の獅子舞の後、引き続いて獅子芝居が行われた。芸題は「朝顔日記」と「梅川忠兵衛」である。また神社で奉納されるもののほか、4月1日と3日の夜には当元の家で余興として獅子芝居が演じられた。芸題は「忠臣蔵三段目」「忠臣蔵七段目」「阿波鳴戸」「海転坊」「鎌倉三代記」「矢口の渡し」などであった。「鎌倉三代記」のほかは、いずれも獅子舞と一体となった芸能である。芝居には、氏子だけでなく村内、村外から多くの人々が集まり大いに賑わった。

(10)貴船神社(山之上/本地)

 祭礼当日、当元から神社まで屋形が行列とともに奉納される際、祭りばやしが演奏され、拝殿では獅子舞も行われたが、昭和30年代半ばに廃絶した。