(31)諏訪神社(伊深/上切)

 祭礼当日、当元から神社まで屋形が行列とともに奉納される際、祭りばやしが演奏され、拝殿では獅子舞も行われたが、昭和30年代半ばに廃絶した。

(32)賀茂神社(伊深/関也)

 祭礼当日、当元から神社まで屋形が行列とともに奉納される際、祭りばやしが演奏され、拝殿では獅子舞も行われたが、昭和30年代半ばに廃絶した。

(33)琴平神社(下米田/小山)

 祭礼当日、当元から神社まで屋形が行列とともに奉納される際、祭りばやしが演奏される。当元の座敷で囃すのが「新車」「若松」「小雀」「くずし」「獅子」である。屋形を担ぎ、当元の家を出て一番に囃すのが「岡崎」で、次いで「新車」「くずし」「道行き」「諸ばやし」、鳥居をくぐるときに「宮入り」が演奏される。おはやしは、笛が約5名、大太鼓2名、小太鼓1名で行う。神事の後、おはやしは拝殿に上がる。「呼び出し」「呼び出し小すずめ」が演奏されると、獅子が社務所から拝殿前に登場、「獅子」(この曲だけ大太鼓がなし)というおはやしに合わせて獅子を舞う。1人が頭、1人が胴、1人が尻尾の3人で約5分舞う。舞が終わると、「小すずめ」のおはやしにのせて退場となる。
(参考『小山物語』佐合武/H7発行)

(34)諏訪神社(下米田/山本)

 諏訪神社は、上飯田、下飯田、福島、山本、東栃井(これを北方(きたがた)という。上飯田は現・八百津町、下飯田、福島は現・川辺町)、為岡、信友、西脇、則光、今(これを南方(みなみがた)という。)の旧10ヶ村を氏子としている。
 祭礼当日、式典の後、獅子(2人立ちの獅子)、ハイオウを先頭に、南方北方ごとの役者一同(大拍子1名、下拍子1名、稚児2名、鼓2名、笛2名、獅子1名(警護役でない獅子、一人立ち)が拝殿の周りを3回回る。先頭の獅子とハイオウは警護役という役目である。かつて信州から諏訪神社を勧請した際、下飯田の神官を警護したとされ、この役は今も下飯田地区の氏子の役目となっている。この時は下拍子だけ打たれる。ハイオウは猿田彦の面を付け、赤黒色の装束を着、太い縄のたすきを掛ける。2メートルほどの榊の木を肩に担ぐ。
 拝殿を回った後、獅子は参拝者の中に入り込み「悪さ」をしようとし、ハイオウはそれを見つけて諫める。一方、役者たちは、北方、南方2台のダンジリに分乗する。ダンジリの屋根には鎧武者の人形を飾る。北方は武田信玄、南方は上杉謙信である。またダンジリの柱に違いがあって北方は角柱(信玄の厳格さをあらわすという。)、南方は円柱(謙信の温厚をあらわすという。)の材料が用いられている。4本の柱には「五穀豊穣」などと書かれた御神燈が付けられる。
 ダンジリは、最初は神社前の広場の本殿から一番遠いところ(西の端)にあり、参拝者が2本の綱を引いて2台それぞれが順に本殿前まで引き上げられる。その途中(広場を横切る「兼山街道」の手前)で一時ダンジリは止められて「とんびの舞い」(両手を上に大きく上げる「降神の儀」で、以後の神事を役者達に委任するものとされる。)「大拍子ばやし」「くずし」「ちごばやし」「若松」の囃しが奉納される。役者の乗り込んだダンジリ自体が神社そのものになるわけである。
 その後「ひき拍子」に合わせて本殿前まで引かれ、そこで囃しとともに「獅子舞」が行われる。舞いは、両手を上げたり下げたり単純な動作であるが、途中ダンジリの柱を両手で持ち、左右の足で柱をたたく動きをする。獅子は南方がオス、北方がメスとされ、舞いにも違いがある。獅子頭は額に結わえ付けるものである。
 ダンジリの引き上げが終わると、その綱で土俵を作り角力(相撲)が行われる。なお、現在は、式典の前にもお囃子と獅子舞が拝殿で奉納されるようになっている。

(35)白山神社(牧野)

 祭礼当日、当元から神社まで屋形が行列とともに奉納される際、祭りばやしが演奏され、拝殿では獅子舞も行われたが、戦後に廃絶した。

(36)牧野の神楽獅子(牧野)

 かつて伊勢神宮の御神木は20年ごとに木曽山中から狩り下げることとなっていた。その際、仮泊所の河原にお祭りの屋形を担いで参集した。牧野の神楽獅子は特に盛んであった。昭和30年代頃までその伝統を引き継いだ形で行われたと思われる。奉納された神楽の台本が数冊残っている。昭和31年2月には牧野青年団が中心となって「郷土芸能保存会」が設立された。