美濃加茂の人物
坪内逍遙 略年譜
 
安政6年(1859) 5月22日美濃国加茂郡太田村(美濃加茂市太田町)の尾張藩代官所役宅に生まれる。幼名勇蔵、後に雄蔵改名。
明治2年(1869) 父平右衛門(のち平之進)が帰農して名古屋郊外上笹島村(現中村区)に移住する。大惣通い、観劇を始める。
明治5年(1872) 名古屋県英語学校に入学する。
明治9年(1876) 官立愛知英語学校卒業後、県選抜生として上京し開成学校(東京大学の前身)に入学する。
明治11年(1878) 本科(文学部政治学科)に進む。
明治16年(1883) 東京大学卒業後、東京専門学校(早稲田大学の前身)の講師となり、外国歴史、憲法論などを担当する。
明治18年(1885) 『当世書生気質』、『小説神髄』を公刊する。
明治19年(1886) 鵜飼常親養女センと結婚する。
明治24年(1891) 『早稲田文学』を創刊する。
明治29年(1896) 早稲田中学の創立にたずさわり、教頭となる。実践教育に重点をおく。この頃、演劇の革新を志し、『史劇論』『我が邦の史劇』戯曲『桐一葉』等を発表。
明治32年(1899) 文学博士の学位を受ける。
明治33年(1900) 尋常小学校用『国語読本』全8巻などを刊行する。
明治35年(1902) 早稲田中学校長に就任する。
明治39年(1906) 文芸協会の創設に参画し、『桐一葉』『ベニスの商人』歌劇『常闇』を上演する。
明治42年(1909) 文芸協会演劇研究所を開設する。
明治44年(1911) 文芸協会改組、会長となり、第1回講演「ハムレット」を上演。
明治45年(1912) 7月、40年ぶりで故郷太田を訪問する。
大正4年(1915) 早稲田大学教授辞任。
大正8年(1919) 5月、妻を同行して故郷太田を訪問する。
大正15年(1926) 『逍遙選集』を第1回配本。
大正9年(1920) 熱海双柿舎落成。
昭和3年(1928) 逍遙を記念する演劇博物館、早稲田大学構内に会館。『シェークスピヤ全集』完成。
昭和8年(1933) 『新修シェークスピヤ全集』第1回配本。
昭和10年(1935) 2月28日逝去。法名「双柿院始終逍遙居士」。早稲田 大学学園葬が行われ、熱海水口の海蔵寺に埋葬される。