1876(明治9)年、岐阜市北長森に生まれる。1889年、山本芳翠の画塾・生巧館で洋画を学び、97年には東京美術学校に入学、
白馬会の会員となる。風俗画や肖像画を好み、昭和に入ると写生に基づく優れた肖像画を多数手掛けた。洋画家として文展や帝展への発表を重ねた。また、1910年には帝国劇場背景部の主任に就き、舞台美術を手掛けた。帝国劇場の在職時には、
坪内逍遙が中心となり結成した文芸協会の公演「人形の家」(1911年)、「ジュリアス・シーザー」(1913年)の舞台美術を担当した。1949年、永眠。