美濃加茂事典
福田太郎八(ふくたたろうはち)
 幕末の太田宿本陣(1834(天保5)~1878(明治11))。二代目太郎八の子として生まれる(三代目太郎八・幸周)。父の死去により1853(嘉永6)年から、太田宿本陣のほか、庄屋、総年寄もつとめ、家業の酒造業なども営む。尾張藩の要請にともなって多くの調達金を引き受け、また近隣の紛争の調停に努力するなど地域の有力な指導者として尾張藩からの信任も厚いものがあった。幕末から明治にかけ、太田村の北の河岸段丘に灌漑用溜池である加賀池、御手洗池、太郎洞池の改修、拡張に力を注いだ。また、太田村西北の台地を新田として開発した(太田新田開発)。1869(明治2)年、武儀郡牧谷の住民を移住させ開墾を進めていった。
【基本図書】『市史/通史編』p456~460,608,619,626,632,633,655,741,747、『市史/史料編』p605~609,1005,1006、『市史/民俗編』p22,23,349,350
【図書情報】№325『太田新田開拓史』、№1109『濃飛偉人傳』p445~451、№3501『市民のための美濃加茂の歴史』p54,98,102、№22321『中山道太田宿に生きた人々の系譜』