美濃加茂事典
仙厓義梵(せんがいぎぼん)
 江戸時代の臨済宗古月派の禅僧(1750~1837)。寛延3(1750)年、美濃国武儀郡(現関市武芸川町)の百姓、井藤甚八の次男として生まれた。11歳のとき清泰寺の空印円虚について出家得度し、諱を「義梵」と名付けられる。明和5年の19歳の春、初めて行脚に出て東輝庵(現横浜市南区永田北)の月船禅慧の弟子となる。32歳の時には、月船の遷化により東輝庵を辞し、東北をはじめとした諸国を行脚する。38歳の冬、妙心寺塔頭・雲祥院と大珠院の推挙で聖福寺・第122世の盤谷紹適の弟子になり、翌年、仙厓の法兄にあたる太室玄昭のすすめもあり盤谷に相まみえる。そして寛政元(1789)年、40歳で聖福寺123世となった。そこで仙厓は、日本最古の禅寺といわれる博多聖福寺の住持として寺の修復を中心とする復興と運営、さらに弟子たちの育成に励むとともに禅の教えをひろめ、博多の人々からは「仙厓さん」として親しまれた。文化8(1811)年、62歳で住職を湛元に譲り自らは幻住庵の虚白院に隠居した後、一度は住職に再任されますが、天保8(1837)年、88歳で遷化した。
 軽妙洒脱な禅画を膨大に描き表したことで知られ、白隠慧鶴と並び称されることもある。作例としては福岡に多く伝わり、意外なことに生まれた地である美濃地方には少ないが、武芸川ふるさと館(関市武芸川町)には仙厓の作品が多数収集されている。この地方では、加茂野の明淳寺に寺宝として仙厓の狗子の絵があるという。
【基本資料】『市史/民俗編』p406
【図書資料】No.30634『墨痕に咲う―美濃の禅画の世界 白隠と仙厓と―』