美濃加茂事典
坪内逍遙(つぼうちしょうよう)
 教育者。劇作家。小説家。翻訳家。雄蔵(ゆうぞう)。1859(安政6)~1935(昭和10)年。美濃国加茂郡太田村生まれ。東京大学卒。早稲田大学教授。1885(明治18)年、写実主義を提唱した『小説神髄』やその実践書の『当世書生気質』など刊行した。1891(明治24)年、雑誌『早稻田文學』を創刊し、近代文学をリードした。また、雑誌『志がらみ草紙』の森鴎外と「没理想論争」と呼ばれる文学上の論争を繰り広げた。文芸協会では、多くの演劇人を育て、近代演劇の基礎を築いた。その他、史劇、倫理教育、シェイクスピア全集の個人完訳など多くの業績がある。
 子どものころを振り返り逍遙は次のように記している。「丁度私の七つ八つといふ学齢頃から、太田駅が東西来往の一要衝となり、其附近一帯が何となくざは々々と落ち着きのわるい場処柄となつてしまつたので、学問はあがつたり、明けても暮れても兵法の調練、撃剣の稽古、大砲木砲の打試し。宅の裏手がすぐ高石垣で、そこが広場になつてゐたから、大砲の打試しがあるたびに、家内中の障子がびり々々と震へた。さういふ有様であつたから、私はとう々々十一歳までは寺小屋へも遣られなかつた。素読は『実語教』の「山高きが故に貴からず」を皮切に、一の兄や次ぎの兄に、おい々々と『孝経』、『大学』と叱られ々々読み習い、習字も兄や姉婿の書いた手本で間に合せ、其他は教へるはうも気まぐれ、習う方は尚ほ更の真似事同様で済し、あとは日がな一日ぬらくらと遊び暮らして、何の益もない絵本や草双紙や稗史を見散らかしたり、「木の実振り」といふくだらん遊戯に夢中になつたり、次ぎの兄にねだつて鳥羽絵まがいの擬造草双紙を毎日のやうに書き継いで貰つたり、自分で形を成さないに木偶の坊を画き散らしたりして無駄に白紙を使ひなくし、「道理こそ未年生れだ」と言はれ々々して、十一歳の夏までを過してしまつた。」[『逍遙選集第12集』「私の寺子屋時代」P8 第一書房(1977)]
【基本図書】『市史/通史編』p973~975
【図書資料】№2802『山椿逍遙』、№3501市民のための美濃加茂の歴史』p92,93、№17247『情熱の人 坪内逍遙』、No.27146「絵を通して見る坪内逍遙」『美濃加茂市民ミュージアム紀要 第18集 2019』、No.29028「坪内逍遙の日記からーふるさとの人の交流」p1-12「墨伝う思い―書を通して知る文人 坪内逍遙」p14-23『美濃加茂市民ミュージアム紀要 第20集 2021』、
【歴史資料】№569 『坪内逍遙展図録』、№2376『翻訳と研究坪内逍遙「小説外務大臣」 』、№2378『坪内逍遙』、№2379『坪内逍遙 日本近代劇の創始者たち 2 』、№2380『人間坪内逍遙 近代劇壇側面史』、№2381『坪内逍遙研究 』、№2383『坪内逍遙 歌・俳集 』、№2406『坪内逍遙研究資料 第 1集 』、№2407『坪内逍遙研究資料 第 2集 』、№2408 『坪内逍遙研究資料 第 3集 』、№2409 『坪内逍遙研究資料 第 4集 』、№2410 『坪内逍遙研究資料 第 5集 』、№2411 『坪内逍遙研究資料 第 6集 』、№2412 『坪内逍遙研究資料 第 7集 』、№2413 『坪内逍遙研究資料 第 8集 』、№2414 『坪内逍遙研究資料 第 9集 』、№2415 『坪内逍遙研究資料 第10集 』、№2416 『坪内逍遙研究資料 第11集 』、№2417 『坪内逍遙研究資料 第12集 』、№2418 『坪内逍遙研究資料 第13集 』、№2426 『坪内逍遙・會津八一(図録) 』、№2429 『坪内逍遙研究資料 第14集 』№2501 『坪内逍遙事典 』、№2923 『坪内逍遙 會津八一 往復書簡 』、№2924 『坪内逍遙研究資料 第15集 』、№2968 『坪内逍遙 研究資料 第16集 』、№2985 『坪内逍遙 文人の世界』、№13017 『坪内逍遙と名古屋 』、№13045 『坪内逍遙と比較文学 』№13046 『坪内逍遙論-近代日本の物語空間-』、№13149 『明治の文学 第4巻 坪内逍遙 』、№13152 『滑稽な巨人 -坪内逍遙の夢-』、№13172 『坪内逍遙の妻 -大八幡楼の恋-』、№13258 『演劇人 坪内逍遙』、№13264 『座談会 坪内逍遙研究』№13304 『シェイクスピア劇の翻訳と演出-坪内逍遙と加藤長治』