美濃加茂ゆかりの人物
『市民のための美濃加茂の歴史』(1995年)に紹介されている人物をその解説とともに紹介します。
岸勘解由(きしかげゆ/? - 1565)
 岸勘解由は斎藤家の家臣で、堂洞城の城主をつとめた戦国武将です。天文13(1544)年、加納口合戦で織田方の織田新十郎を討ち取って、斎藤道三から与えられた感状が関市の岸家に伝えられています。
 永禄8(1565)年8月、織田信長に堂洞城を攻められた勘解由は、二の丸を守る子の孫四郎が討死したことを知ると、「待てしばし かたき浪風切りはらい 共に至らん 極楽の岸」という辞世を詠んで、夫人とさし違えて自害しました。戦国の世が去って江戸幕府が成立し、中蜂屋村が幕府領から尾張藩領に移されると、勘解由の孫にあたる岸嘉兵衛は御柿庄屋に任ぜられました。なお、勘解由の父・彦八郎信連は、瑞林寺の東北500mの所に大興寺を建てたといわれ、下蜂屋天神神社の社殿を修理したと伝えられています。
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円空(えんくう/1632-1695)
 「円空仏」で知られる円空は、寛永9(1632)年美濃国に生まれ、寛文3(1663)年ころ出家すると、全国を行脚しながら木像を彫りつづけました。ノミとナタの掘り痕が残る木像は、素朴な美しさを示し、現代の私たちの心に強く訴えかけるものがあります。寛文11(1671)年、円空は当市の三和町廿屋の観音洞の洞窟にこもって、馬頭観音を彫り、その後、貞享年間に蜂屋町広橋の北観音堂に薬師三尊を残しました。次の歌は、この時詠んだものといわれています。「年のよのさすか蜂屋の串の柿 密と見まかう甘口にして」。円空の残した仏像は3.5m余りの仁王像から2、3㎝の木端仏(こっぱぶつ)まで10万体とも12万体ともいわれます。当市に残る円空仏は15体、そのうち7体は市指定の文化財です。円空は元禄8(1695)年7月15日、関の長良川のほとりで亡くなりました。
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兼松嘯風(かねまつしょうふう/1654-1706)
 江戸時代、当地方の俳壇を代表した兼松嘯風(本名甚蔵)は、承応3(1654)年、深田村の豪農の家に生まれました。中年になってから俳譜に親しみ、松尾芭蕉の十哲といわれた内藤丈草(じょうそう)や各務支考(かがみしこう)と交わり、その教えを受けました。後に支考が美濃派の俳人の句集『国の華』を編集するとき、嘯風は加茂・可児地方を含む第四巻を担当しています。いわゆる『藪の花』55丁で、そのうちもっとも充実していたのが嘯風の地元の深田と、嘯風が手ほどきした堀部魯九(ろきゅう)の住む蜂屋の部でした。晩年、嘯風は句集『ふくろ角』の編集を始めてまもなく水腫を患い、宝永3(1706)年5月7日、53歳で亡くなりました。死後その句集は魯九によって再編集され刊行されました。「ころころと臼引あるくよさむ哉」これは嘯風が元禄9(1696)年、43歳のときに詠んだ句です。
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白隠禅師(はくいんぜんじ/1685-1768)
 正徳5(1715)年の早春、山之上村の岩滝山にこもって2年近く、きびしい修行をつづけ、当地方に強い影響と数々の逸話を残した白隠禅師慧鶴(えかく)は、貞享2(1685)年12月25日、駿河国(現静岡県)浮島原に生まれました。15歳で得度し、全国の寺をまわって苛酷な修行を行いました。白隠は山之上村から帰郷して松陰寺(しょういんじ)を継ぎ、のちに臨済宗妙心寺第一座に就き、臨済宗中興の祖といわれるような宗教的業績をあげ、明和5(1768)年12月2日、松陰寺で没しました。84歳でした。白隠が修行したといわれる場所は、市指定の史跡となっています。白隠は禅味あふれる書画を数多く残しており、市内の寺院や個人もそれらを所蔵しています。
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播隆(ばんりゅう/1786-1840)
 天明6(1786)年、越中国(現富山県)に生まれた播隆は、30歳ごろ浄土の念仏行者になり、深山幽谷で修行するかたわら、槍ヶ岳(3180m)の開山に励みました。文政11(1828)年に初登頂を果たし、山頂に仏像を安置し参道を開きました。その後、播隆は兼山の浄音寺に滞在して布教しつつ、「南無阿弥陀仏」の六字名号碑を数多く建てています。槍ヶ岳の第五回登頂後に病気になった播隆は天保11(1840)年10月、滞在先の太田宿脇本陣林市左衛門方で死去しました。55歳でした。埋葬された弥勤寺が廃寺になった後、祐泉寺に改葬されました。同寺境内には、播隆の墓碑のほか歌碑、名号碑が建っています。
福田太郎八幸周(ふくだたろうはち/1853-1878)
 天保5(1834)年[天保4年の説もあり]、二代目福田太郎八の子に生まれた太郎八幸周(ゆきちか)は、父の死後、太田宿本陣、総年寄、庄屋と家業の酒造業、米穀商を継ぐと、太田村の北に連なる河岸段丘上の太郎洞池(たろうぼらいけ)や加賀池(かがいけ)、御手洗池(みたらいいけ)などの灌漑用溜池の改修工事に取り組みました。新田開発も進めましたが、それらに要する莫大な工事費を負担しています。太郎八幸周は尾張藩の信任が厚く、たびたび藩の求めに応じて献金し、村々の争い事の調停に奔走し、その公平無私な態度で問題を解決に導いています。明治11(1878) 年9月16日、働き盛りの44歳で亡くなりました。地元の人々が太郎八の遺徳を偲んで建てた太郎八神社は大正12(1923)年、洲原(すわら)神社などと合祀して村社に列せられました。
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林小一郎(はやしこいちろう/1853-1926)
 当地方の政治史に、その名を残す林小一郎は嘉永6(1853)年、中山道太田宿脇本陣の林家に生まれ、16歳のとき衽革隊(じんかくたい)に入って維新前後の動乱に加わりました。その後、加茂郡役所書記を経て明治12(1879) 年、県会議員に当選すると東濃・飛騨の代表者として西濃重視の県知事に反対しつづけました。明治15(1882) 年に自由党の板垣退助が来遊したとき太田で懇親会を計画しました。地租改正や国会開設請願運動のリーダーとして小一郎は欠かせない存在でした。明治23(1890) 年に行われた第一回衆議院議員選挙に自由党系として立候補して当選しましたが、第二回選挙では政府の干渉を受けたこともあり落選しました。明治37(1904) 年の選挙では、伊藤博文の政友会から立候補して議席を回復しています。大正15(1926) 年74歳で死去しました。
志賀重昂(しがしげたか/1863-1927)
 美濃加茂市の観光の一つである「日本ライン下り」は、犬山まで木曽川を舟で下るもので、景色が美しいことで知られています。この川筋を「日本ライン」と名づけたのが、地理学者の志賀重昂です。文久3(1863)年、三河・岡崎藩の儒者の子に生まれた志賀は、札幌農学校(現北海道大学)を卒業後、雑誌「日本人」の創刊に加わり、明治27(1894) 年に『日本風景論』を刊行して、広くその名を知られました。大正3(1914) 年、加茂郡教育会の招きで来遊した志賀は、木曽川下りを楽しんだとき、そこの風景がドイツのライン河に優るとも劣らないと激賞し、舟中でその美しさを詩に詠みました。この詩の力もあって、日本ラインは大阪毎日新聞社主催の日本八景コンクールの河川の部で第一位に選ばれました。太田町の祐泉寺境内に志賀の墓碑があります。
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大畑市太郎(おおはたいちたろう/1851-1930)
 嘉永4(1851) 年、上古井村(現本郷町)に生まれた大畑市太郎は、明治12(1879) 年、美濃輪群次に見出され、若くして上古井村戸長に選ばれました。その後、村の立て直しに努め、後には県会議員にも選ばれ、政治の世界で大きな力を発揮しました。一方、地域の農村振興をめざす市太郎は、早くから農事通信員をし、加茂郡農会の会頭として幅広く活躍しました。さらに、自ら茶の栽培と養蚕を行い、明治21(1888) 年、自宅に養蚕伝習所を開いて、多くの人を教えました。また、市太郎は明治42(1909) 年には、上古井地区の耕地整理に取り組みました。それまでの水田は、境が複雑に入り組んでいたり、一区画の面積が狭かったりして、作業能率はきわめて悪いものでした。耕地整理とは境を直線にし、個々の所有地が散在していたのを交換分合して一区画の面積を広くすることです。一人一人の利害に直接かかわる問題でもあり、農閑期にしかできない作業ですから、大変な仕事でした。完成には10年近くの歳月を必要としましたが、市太郎の指導と村民総がかりの協力で完成させました。
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岡本一平(おかもといっぺい/1886-1948)
 この地方に古くから行われていた「狂俳」に、俳句と川柳の特性、ユーモアを盛り込んで「漫俳(まんぱい)」という新しい文芸を提唱、確立した岡本一平は、明治19(1886) 年北海道函館に生まれ、東京美術学校(現東京芸術大学)洋画科を卒業後、朝日新聞に漫画漫文を連載するかたわら、多くの後輩を育てました。戦争中、一平は西白川村(現白川町)に疎開し、昭和21(1946)年には古井町に転居しました。その間、漫俳を指導し、文芸の同人雑誌を発行するなど、地域文化の向上に大きく貢献しましたが、昭和23(1948) 年、62歳で亡くなりました。ちなみに、一平の子息の太郎は画家、妻の岡本かの子(1939年没)は作家です。
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林魁一(はやしかいいち/1875-1961)
 岐阜県の考古学、民俗学の先駆者であった林魁一は、明治8(1875) 年太田村に生まれました。日本の考古学、人類学の草分けであった坪井正五郎とその弟子鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)らとの出会いが、魁一の研究のはじまりとなります。明治31年「美濃国加茂郡石器時代遺跡」を東京人類学雑誌に発表してから、加茂地域はもとより県内各地で調査を行い、研究雑誌に発表しました。彼が明治から昭和にかけて発表しつづけた論文は200本以上にもなります。第二次世界大戦のころは、発表がしばらくできなくなりましたが、戦後復活した学会へ夫人に支えられながら積極的に参加しました。たまたま、学会に同席した中野効四郎(当時の岐大教授)は、魁一に対する著名な学者たちのていねいな接し方を見て、なかば驚くと同時に魁一の功績の大きかったことの証だともいっています。魁一は、政治家であった林小一郎の長男として生まれています。一時期、県会議員などをつとめたこともありますが、推されて断り切れず引き受けたものです。林魁一はやはり学問の人でした。
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